Guitars590’s blog

愚か者の力を馬鹿にしちゃあいけない。

1980秋

 スクランブル交差点を駅のほうから斜めに渡り、大盛堂を右に見てたばこと塩の博物館の方に向かって歩く。彼女は私とほぼ同じ身長だから歩くのにお互い気を使う必要がない。いつものことだが、彼女は背筋を伸ばし、小気味よく歩く。女性としては大柄な方で誰が見ても美人だというだろう。ただ、こうして一緒に歩くときは彼女はヒールのない、ぺったんこの靴を履くことが多い。おそらく私に気を遣っているのだろう。午前の授業が終わり、お昼をそれぞれの友達と摂った後、待ち合わせをして、4時から始まる今日の最後の授業まで散歩に出たのだ。私と彼女の関係はというと、実に微妙だ。同じクラスには同棲をしている者もいたし、手をつないで次の教室に移動する者もいた。私たちは関係を隠してはいなかったし、周囲からは付き合っているのだなくらいに思われていたと思う。

 区役所の前まで来ると突然彼女は立ち止った。

「ねえ、結婚しようか?」とこれまた突然彼女が言った。

「え?」

「だから結婚しよう。だめかな?ほら私、結婚相手もう決まっているじゃん。親が決めたからさ。だから大学の間だけでも自由にしたい。迷惑にならないように、卒業する時には離婚するからさ。」

彼女に決まった結婚相手がいるのは知っていた。見合いをしたということも聞いていたし、その時の様子も説明をしてくれていた。

「でも、お互い離婚の前歴が残るぜ。」

「大丈夫、私の方はなんとかなる。というか黙っていればわからないんじゃない?」

「そんなものかなぁ。おれはタマキと結婚の経歴が残るのはうれしいけれど。」

「じゃあ、婚姻届けをもらってこよう。」

言うなり彼女は区役所の中に駆け込んだ。私はあわてて彼女の後を追った。受付で住民課の場所を聞くと彼女は一直線に進んだ。

「あの、婚姻届けをください。」いつものはっきりした言い方で彼女は言った。

婚姻届けは何の問題もなく手渡された。彼女はそれを大切にバッグの中にしまった。

私は半分あっけにとられていた。「あなた方は若いからよく考えなさい。」とか「学生なんだろうから卒業してからにしなさい。」とか言われて婚姻届けをもらい損ねるんじゃないか、という心配は杞憂だった。

 婚姻届けをもらった彼女は足取りも軽くNHKの前を歩いていく。NHKの見学コースは暇つぶしには絶好の場所だ。だが彼女は公園の方に向かってずんずん歩いていく。公園の芝生の上も私たちの好きな場所だ。日向ぼっこをしながらとりとめのない話をするのは大好きだ。いつもの場所に腰を下ろすと、彼女はバッグの中から婚姻届けを取り出し、にこにこしながら言った。

「これを出すと夫婦なんだね。夫婦って言い方ちょっと嫌だけど。」

「そうだな、その言い方は確かに嫌だ。」

「でも、出してみよう。出したいな。ここで書いてさ、授業に戻る前に区役所に出そうよ。書こう、書きましょう。」

「でも、ここで書くのは拙いんじゃないか。字がヘロヘロになりそうだし、何かしっかりしたものの上で書きたいね。」

「じゃあ、教室で書こう。教室の机の上で。」

「学生会館の机でもいいんじゃないかな?」

「だめよ、教室の机の上。絶対。」

「みんなに見られちゃうよ。」

「それも悪くないわね。みんなびっくりするわ。」

彼女は婚姻届けをまたバッグにしまった。

私は煙草を何本か吸い、彼女ととりとめのない話をした。確か、私たちの大学は学生結婚をすると祝い金が10万円出る。私はそのお金で指輪を買おうと提案したが却下された。あれこれ考えたがお金の使い道は決まらなかった。

「そうだ結婚指輪の代わりに交換すべきものがあるわ。」

「なにを交換するの?」

「パンツです。」

「ええっ!パンツ?」

「そうよ、結婚すれば何もかも見ちゃうでしょ、お互い。」

「そうだけどさ、パンツですか?」

「断然、パンツです。」

いうと彼女はトイレの方に向けて歩き出した。どうしたものかと考えているうちに、彼女は戻ってきた。左手にピンクの布切れを握りしめている。

「はい、これ私のパンツ。」左手を差し出しながら。

「これ持って行ってトイレの中で履き替えてきて。少し汚れているけど。」

私は右手でそれを受け取る。

「しょうがねえなぁ。」

「その辺でひろげて見ないでね。あたりに人は結構います。それから履き替えたらすぐに戻ってきて。私いわゆるノーパン状態だから。」言って彼女は笑った。彼女は今日はデニムのミディスカートだ。

「スカート捲りをしたくなった。」

「ばーか!させません。早くいってこい!」

彼女の声に励まされトイレに向かった。個室に入り着替えた。トランクスを手にもって歩くのは恥ずかしかったからLeeのジーパンの尻のポケットに入れて、バンダナが垂れ下がっているようにしてトイレを出た。遠くに彼女が座っているのが見えた。そちらに向けて小走りに急いだ。なにせ彼女はノーパンなのだ。

「はい、お待たせ。少しパンツがきつい。体形はほとんど同じなのにな。」

「ま、そんなものよ。女子のパンツは少しきつめなのよ。それより早くパンツ。」

手渡すときに少し抵抗があったが、彼女は奪い取るようにして歩き出した。トイレの中に入るのが見え、すぐに出てきた。

「あー、すーすーするわ。男物のパンツってこんなにすーすーするもの?」

「それはトランクスだから。ブリーフなら少しは女子のパンツに似た履き心地かも。」

「ふーん。でもまぁこれでパンツの交換は無事終了。私たちが2人でする初めての共同作業が終わりました。」

「何それ?」

「ほら、よく結婚式で言うのよ。ケーキを切るときにさ、これが二人でする初めての共同作業です。って。」

「へー、結婚式出たことないからわからない。」

 私たちは、3時を回ったところで大学に向けて歩き出した。

教室は4コマ目には使われていないかったようで、同じクラスの者が暇を持て余して5コマ目の授業を待っていた。教室の中は禁煙なのだが、そんなことお構いなしに煙草を吸うものだから、煙が充満している。彼女は私の前の席に座るとバッグから書類を取り出した。

「書きましょう。」

「覚悟はしている。」

婚姻届けを広げ書き込んでいく。それなりに手が振るえるものだな、などど思いながら自分の欄を書いた。

「なにしてんだよ。お二人さん。」スドウだ。横には小柄な女子、コンドウ。しっかり韻を踏んでいる。彼らは同棲している。時々、教室で痴話げんかをしている。

「うへ、婚姻届けかよ!ひえー、マジですか?」

叫び声で回りに友人が集まってくる。

「うわ、本物?初めて見た。」私だって初めて見た。

「お前の欄書いてあるじゃん。」ヒラヤマだ。

「お前はこれから書くのか?」彼女に向かってヒラヤマが言う。

「書くわ。書きます。」言うとすぐに彼女は自分の欄を埋めた。

「うわー、結婚おめでとうございます!」

「まじか?マジなのか?」

「タマキ本気?本気なの?」

「うお、22歳と20歳のご結婚!」

いろんな声が聞こえてきたがとにかく二人の埋められる欄は埋めた。結婚後の住所は大学の住所を入れた。

もう教室の中はしっちゃかめっちゃかだった。授業が始まり教授が教室に入ってきたが教授までもが祝辞を述べてくれた。神道系の大学だから祝詞を上げようと言ってくれたが丁寧にお断りした。

授業が始まったがすぐに前の席の彼女からメモが回ってきた。「保証人みたいなのの欄はどうしよう?」

「んー、わかんない。どうすべきか?」返事を書き背中をつつきメモを回す。

「後で考えよう。」前からまたメモが回ってきた。「そうするんべえ。」私の地元の言葉でメモを返した。

今日の最後の授業が終わり、彼女が後ろを振り返る。

「この欄は私に任せて。知り合いの茶店のマスターに頼んでみる。書いてもらった後、私が出してくる。」

「いや、出すときは一緒だよ。一緒に出す。」

「はいわかりました、ご主人様。」

「うむ。苦しゅうない。」

「そりゃあバカ殿、志村けん。じゃ、また明日。パンツ履き替えずに銭湯いけ。妻の命令。」

「第一号の命令はそれかい。俺はイセと晩飯を学食で食ってから帰る。じゃ、また明日。」

彼女は興奮している女友達と帰っていった。彼女は埼玉の自宅から通っているのだ。

「お祝いコンパだ、お祝いコンパ。」という友人の誘いを断り学食に向かう。

まったくなんという一日。晩飯を130円の一番安いA定食で済ませ、私は高円寺のアパートに帰った。

 翌日、授業の合間に、すっかり完成した婚姻届けを区役所に提出した。彼女は機嫌がよかった。その後、どこからも何も連絡や苦情の類は来なかった。ただ、半月ほどたった時に学生課の掲示板に私たち二人の名前が張り出され、呼び出しを食らった。何かと思って出頭すると祝い金をくれた。申請しなかったのに貰えたのは、区役所から問い合わせがあったからだという。住所が大学になっているが、という問い合わせだったらしい。事務の女性に住所を大学にしたのは何故か?と質問をされた。すぐに住むところが見つからなかったからだというと、そんなに慌てて結婚しなくてもいいのに、と事務員に言われた。学生課を出て廊下で二人して思い切り笑ってしまった。

 昭和55年秋。